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毎日新聞 2005年12月16日 東京朝刊
戦後60年の原点:シリーズ・あの日を今に問う 婦人参政権成立(その1) <1945年12月17日、婦人参政権成立> ◆この声が届いた--園田天光光さん(86)、飯島夕雁さん(41)に聞く 1945年12月17日、改正選挙法が公布され、女性が社会の一員として衆議院選挙で一票を投じ、立候補する権利を手にした。その4カ月後の戦後初の総選挙で、約1376万人の女性たちが初めて投票し39人の女性議員が当選。その数は、今年9月の総選挙まで59年間破られることはなかった。39人のうちの一人、園田天光光さん(86)と、今年初当選した飯島夕雁(ゆかり)さん(41)に語り合ってもらうとともに、婦人参政権の誕生に関する秘話、女性の社会進出の歩みを検証した。男女がそれぞれ責任も担い、いきいきと生きる社会を目指す原点が見えてくる。 ============== そうだ、「世の中」があった 生き残された者として 今見てきたことを話そう ============== ◇代議士=「政治屋」と偏見/私にもチャンスがある --政治家を志した原点は何だったのですか。 園田天光光 敗戦直後、「何のために生き残されたのか」と苦しみ、ずっと外に出られませんでした。男性と同じ教育を受けましたが、同級生の多くは戦死しました。 10月初めのある日、ラジオから「命からがら帰ってきたのに、家族も家もない。上野駅の地下道は餓死した人でいっぱいだった」という復員軍人の言葉が流れてきました。「そうだ、世の中というものがあったんだ」と気づかされた。父らと実際に上野駅へ行ったら「せっかく生き残されたものが餓死してはあいすまん。なんとかして、皆で生きていかなくちゃならん」という思いがふつふつとわいてきた。 帰り道で、婦人運動家が街頭で演説したことを思い出しました。「私には口、言葉が残されている」。同じことを思ったのでしょう、新宿駅西口で父が突然「今見てきたことをここでしゃべったらどうか」と。ところが、父の友人が演説しても誰も立ち止まらない。そうしたら、父が「女のおまえがしゃべったら、みんな寄ってくるかもしれない」と言うのです。 --それで演説を始めたのですか。 園田 胸の中にあるものをしゃべりだしたら、どんどん人が集まってきた。「焼けぼっくいに上がれ」という声も上がった。その日分かったのは、「しゃべれば聞いてくれる人がいる」ということ。翌日午後、新宿駅西口に行ったら、人がもう集まっていた。紙と鉛筆が回り、名簿ができている。幾日かたったら「旗を立てなさい」と木綿の布をかついできてくれた方がいる。それで「餓死防衛同盟」という旗を作りました。 --10月11日、幣原内閣が婦人参政権を決めたころですか? 園田 そのころかもしれません。その後も毎日街頭で演説し、農家の野菜をトラックで運んで安く分けたり、米の配給や兵舎の開放を求めて幣原(喜重郎)首相に陳情に行ったり。年明けだったでしょうか、ある日会社の社長さんが来て「これからは国会が中心になるから、次の選挙に出なさい」と言うのです。悔しくて3日間泣き明かしました。 --えっ、どうして? 園田 代議士は「政治家」ではなく、権力を持って、私利私欲のために活動する「政治屋」だという偏見を持っていました。ところが「政治家が政治屋では私たちが困る。身代わりになって、選挙に出てくれ」と同盟の人に言われました。それからです、選挙に出ようと決心しだしたのは。 --伊豆諸島、青ケ島の教育長だった飯島さんも最初から政治家を目指していたわけではない。札幌に赴任していたお連れ合いがけがをされて、お見舞いに行く途中、東京のホテルでテレビを見たことがきっかけだとうかがいました。 飯島夕雁 小泉改革をコメンテーターがこきおろしていたんです。私も人口200人ほどの島で小中併設校の一貫教育への取り組みなど改革していました。小泉(純一郎)総理とは雲泥の差だけれど、改革するのは反発もあって大変。砂をかむような思いもした。「批判だけなら誰にもできる」と憤慨していたら、番組の最後に「自民党緊急公募」って出たんです。「エッ、公募? 私にもチャンスがあるっていうこと?」。「104」で党の電話番号を調べ、「私でも応募できるんでしょうか」と尋ねたら「大丈夫。でも、締め切りは明日です」と。インターネットカフェで党のホームページから履歴書をダウンロードし、3分写真の顔写真を張って投かんしました。札幌の病院で夫の世話をしていたら、「明日来て下さい」と電話があって……。 --お連れ合いはなんと言われたのですか? 飯島 「行ってこい」と。私たちは子どもができなかったものですから、仕事で社会に貢献しようといつも話しています。でも、普段着姿のままでしたから、面接では武部(勤)幹事長に驚かれました。最初は岐阜1区で、というお話でしたが、岐阜には縁もゆかりもありません。「武部幹事長を生で見たよ、小泉首相にも会ったよ。合格だけど、岐阜1区だって」と電話したら、夫は「面接に行けただけでもよかったよね。岐阜はお断りしなさい」と。私もそのつもりでしたが、翌朝になって北海道10区と言われ、スキーであこがれの地でもあったし、夫もいるので立候補を決めました。 --刺客、と言われましたが。 飯島 改革のために刺客、落下傘と呼ばれることは覚悟の上。園田先生のお話を聞いて、地元のねじれがどうのという話ではない、と今心に決めました。「助け合わなくては」という思いを、園田さんが皆さんの心にすとんと落ちる言葉で語られたから、紙が来て、旗が来て、トラックが来た。政治の原点です。 --今との違いで感じられたことは? 飯島 「生き残された」とおっしゃいましたが、今は普通に生きていけるのが当たり前になってしまい、どう生きるべきか、逆に分かりにくくなったと思います。 ◇男性とともに社会支える --女性議員が39人登場して、政治は変わりましたか? 園田 「なんだ、女なんかでてきやがって」と見ていた男性も多かったような気がします。政策では39人で「これをやろう」と決めても、それぞれ持ち帰ると「それはだめだ」という党がでる。できたのは牛乳の値上げを阻止しようとしたことと、小麦と大豆、赤ん坊のミルクの輸入をマッカーサー元帥に陳情したことです。 --今回女性議員が増えた理由は何ですか? 飯島 自民党が女性議員を比例名簿の上位にしたことが大きかったと思います。男性の配慮があって、女性議員が増えた事実は否めません。自民党の新人議員は83人、女性と新人がこれだけ多いことはまずない。女性がどれだけ残っていけるか、責任は非常に重いと思います。 園田 各分野で実績を上げた人が多かった点はよかったですね。 --「勝ち組」女性とも言われますが。 飯島 私は勝ち組じゃないんですよ。転職を繰り返しました。タイゾー君に負けないぐらい(笑い)。 「大学にやる余裕はない」と親に言われ、高卒で市役所に入りました。最初の冬のボーナスで夜間大学に入学し、卒業後仕事を選ぶ幅が広がったので、出版社に転職。そこで夫と知り合い、寿退社しました。 --寿退社が規則だったのですか? 飯島 専業主婦をやってみたいという気持ちがあったものですから。でも3カ月で飽きてしまい……、東京都港区役所で高齢者福祉に携わり、もっと介護の仕事をしたいと民間病院に移りました。認知症の方にかかわるうち、幼少期の体験が後半の人生に大きく影響することを知り、幼少期の支援をと夢がどんどん広がって、教育長の公募に手を挙げました。これまでの生活や職業を変えることは決意もいるし、保証はありません。でも、その時その時チャレンジした結果、今の自分があります。 --59年間女性議員は増えませんでした。 園田 大選挙区制は一度で終わったし、まだ男性社会だったからでしょう。また、政治は自分のものなんだという気持ちを女性にもっと持ってもらいたいです。 飯島 私も、政治は2世3世、秘書がやるものだと思っていました。でも、政治で暮らしを変えられます。 --女性議員は増えたほうがいいですか? 園田 政治の目的は、皆さんが安心して暮らせる社会、戦争のない世界を築くことです。女性のすべてが平和主義者ではありませんが、女性の感覚が戦争を否定する大きな力になると思います。 --増やすには何らかの仕組みが必要ですか? 飯島 今回当選した女性議員がさまざまな場で活躍して、「政治に無関心ではいけない」と女性たちを引き戻すパワーにならなくては。一方、女性議員を増やす配慮もまだ欠かせないと思います。 --飯島さんへのアドバイスをお願いします。 園田 行動が大切です。男性を敵にするのではなく、ともに社会を支えているという視点が必要だと思います。 飯島 女性、男性を意識しなくなって初めて平等だと言えるのですものね。【司会・生活家庭部長 小島明日奈、撮影・馬場理沙】 ============== ●婦人参政権 「婦人」という言葉の代わりに「女性」が使われることが増えています。その背景には、「婦」の字の原義が、女性が「箒(ほうき)」を持つ様子を表しているということから差別的だとする意見や、言葉そのものを古めかしいと感じる人が増えたことなどがあります。旧労働省・婦人局が97年に女性局と改名するなど、自治体でも部署名の変更が相次ぎました。しかし、この特集では、大正時代から粘り強く続けられた婦人参政権獲得運動など当時の時代状況を振り返る趣旨から、「婦人参政権」の表記を使用します。 ============== ■人物略歴 ◇そのだ・てんこうこう 1919年、東京都出身。東京女子大、早稲田大卒業。戦後初、46年の衆院選で27歳で初当選。47年、49年と3回連続当選した。園田直・元外相(故人)との結婚は、当時“白亜の恋”として話題に。日本・ラテンアメリカ婦人協会名誉会長、十四世六平太記念財団理事長(能楽喜多流)など、現在も15の団体の活動にかかわる。 ============== ■人物略歴 ◇いいじま・ゆかり 1964年、東京都出身。東京都小金井市役所に勤めながら、中央大学商学部(夜間部)を卒業。社会福祉主事、ホームヘルパー1級、ケアマネジャーなどの資格を持つ。東京都青ケ島村の教育長の公募に応じ、173人の中から選ばれ、02年4月~今年8月同村教育長。衆院では農林水産委員会、文部科学委員会に所属。 (その2) <1945年12月17日、婦人参政権成立> ◇参政権巡り、思惑三様 敗戦から2カ月足らずの45年10月11日。連合国軍最高司令官・マッカーサー元帥が婦人参政権付与など「5大改革」を幣原(しではら)喜重郎首相に指示する1時間前、政府は婦人参政権導入を閣議で決めていた。女性解放を政府に迫る連合国軍総司令部(GHQ)と、「国体護持」のために女性票活用をもくろんだ日本政府、市川房枝氏らが戦前から繰り広げてきた獲得運動。婦人参政権は、複雑に絡み合った3者のベクトルの総和の所産だった。【生活家庭部・有田浩子、政治部・山田夢留】 ◇再軍国化の防止策--GHQ マ元帥が厚木飛行場に降り立ったのは45年8月30日。「まず日本の軍事力を破壊する。次に代議政治体制をつくる。女性に参政権を与える……」。マニラからの機中、マ元帥は側近のホイットニー准将に11項目の日本占領方針を説明した。婦人参政権は占領政策の重点項目の一つだった。 「日本の女性に参政権を与えよう。女性は自分の子供が戦場で死ぬのを好まない。女性の参政権が、日本の軍国主義をやっつける力になる」。マ元帥は、日本の再軍国主義化を防ぐ政策の一つとして婦人参政権付与を検討していた。 GHQの動きは早かった。9月初め、日系2世の塚原太郎中尉が、労働運動家で後に社会党代議士となった加藤勘十、シヅエ夫妻を訪れ、法律策定など「相談相手」になるよう依頼。婦人問題の非公式の顧問となったシヅエ氏は、後日GHQに招かれ、婦人参政権の必要性を説いた。 9月15日。東久邇稔彦首相に対し、マ元帥は「再びあのような過失(戦争)を犯さないことが必要だ」「特に女性への参政権付与が必要である。女性の参政によって戦争を防止することができる」と語った。10月4日には近衛文麿元首相と会談。戦前からの議会の顔ぶれを変えるため「選挙権を拡張し、婦人参政権と労働者の権利を認めることが重要だ」と伝えた。 婦人参政権が閣議決定された直後の11日夕の幣原首相との会談で、マ元帥は「5大改革」を指示。会談直前の閣議で婦人参政権付与を決めたことを首相から聞いたマ元帥は「最も健全な方向と思う」と満足の意を表明した。 「婦人参政権はマッカーサーの贈り物」との理解は根強い。マ元帥も回想記で、「私の提案で」日本が婦人参政権を含めた選挙法改正を行ったと記している。母への愛が強かったといわれるマ元帥。回想記では、占領政策で「女性の地位向上ほど私にとって心あたたまる出来事はなかった」と述べている。 ◇国民投票に備えて--政府 GHQは10月4日、思想、言論などの自由を制限する法令廃止、内務相罷免、特高警察廃止などを内容とする「自由の指令(人権指令)」を発した。東久邇内閣はこれを受けて5日に総辞職。6日に幣原喜重郎元外相が後継首相に指名された。幣原首相は、内務相就任要請を断った前田多門氏に代わって堀切善次郎貴族院議員を任命した。 11日午後1時からの閣議で堀切内務相は女性への参政権付与を提案。首相も支持を表明し、実現の方針が閣議決定された。閣議終了は、マ元帥から女性の解放など「5大改革」の指示を受ける1時間前だった。 堀切氏はなぜ、婦人参政権付与を含む選挙法の根本改正を決意し、GHQの先手を打つ形で閣議決定に持ち込んだのか。GHQが婦人参政権付与を求めていることは新聞報道などで知っていた。付与は、戦前、治安維持の中枢を担った「内務省の解体を回避するため、GHQの歓心を買うのが目的」との解釈がある。しかし、堀切氏の動機は省解体回避にとどまるものではなかった。 堀切氏は当時の日記やメモを残していない。が、後の国会答弁などから「国体護持」のための女性票の活用が堀切氏の念頭にあったことが明らかになってくる。 「婦人は穏健なところがある。外国の例でもやはり婦人の投票は大体極端な方には行かないで、中正穏健なところに大体集まるというふうに聞いている。激動の今日において、この婦人の穏健中正な考え方にはある程度期待してよいのではないか」「天皇制の護持が、今日のすべての施策の根本であり、最も大切な問題であることを確信する」--。堀切氏は議会の答弁でこう強調している。 国民自身が「国体」を決める国民投票を、いつGHQから求められても大丈夫なように備えておかねばならなかった。急激な体制変換でなく、「天皇制堅持」という結論を導くには、「穏健な」女性票は不可欠なカードと考えられた。 一方、堀切氏は、東京市長時代に、ガス料金値下げ運動などを通じて市川氏と交友があり、婦人参政権の要望は熟知していたが、付与には反対だった。戦後、婦人参政権付与に転換したのは、GHQの求める民主主義と「国体護持」を両立させる手立てとして、婦人参政権を活用しようとしたためとみられる。 ◇政治を国民の手に--市川氏ら 8月15日、敗戦を聞いて悔し涙を流した市川房枝氏は同時に、「今度こそ婦人参政権が実現できる」と確信した。10日後に山高しげり、赤松常子らと「戦後対策婦人委員会」を結成。東久邇首相に「日本政府の手で婦人参政権実現を」と申し入れた。東久邇首相は「考えてみよう」と答えるにとどまった。 9月23日付の毎日新聞で市川氏は「いままでの政治は国民と離れた一部の人々のものだったが、婦人が参政権を持てば国民の生活に根ざしたものになる」と力説している。一方で「いつ、どんな条件で与えられるかははっきりしない」「(東久邇)首相は研究するといっているが、政府の意思表示はまだされていない」(30日付読売報知新聞)と、不安な胸中ものぞかせていた。 24日の委員会初会合では、選挙法改正について「20歳以上の婦人に選挙権、25歳以上の婦人に被選挙権を与えること」などを決議した。10月9日に就任した幣原首相への要望として、市川氏は読売報知新聞(7日付)に「向こう(GHQ)から言われないうちに政府が責任をもってどしどしやっていくこと」と語った。 「婦人参政権獲得期成同盟会」の結成(1924年)など戦前から婦人参政権実現の活動を繰り広げてきた市川氏らの運動、そして、内務相に就任した堀切氏との交友関係、戦後内閣・政党への度重なる要望活動が、GHQによる日本の民主化の磁場の中で、婦人参政権実現を後押ししたことは間違いない。 ============== ◇帝国議会審議で、慎重意見相次ぐ 45年12月1日に帝国議会衆院本会議で始まった衆院選挙法改正案の審議では、婦人参政権への質問が相次いだ。GHQの意向や世論を意識して、公然と婦人参政権に反対する意見こそなかったものの、質問の多くは慎重意見だった。 「男は外で働き、女は内で家を守り、そこに日本の家族制度が成立する。今後選挙をやれば(女性は家内ではなく)家外さんになる」(衆院特別委の田村秀吉議員) 「婦人のごとき政治に関心のない、教養のない、経験のない、こういう者に突如として選挙権を与えても失敗に終わるのではないか」(貴族院特別委の松平外与麿議員) 家長を中心とする家族制度との関係や、「女性の政治意識の低さ」を問題視する意見が支配的だった。 婦人参政権への道を開いた堀切善次郎内務相も「婦人は単純で9割は亭主と同じ投票をすると言われている」と答弁し、女性活動家から批判を受ける一幕もあった。【政治部・山田夢留】 ◇「制限連記制」が味方--戦後初の選挙、女性39人が当選 「婦人の進出目覚まし」--。1946年4月12日付毎日新聞は、婦人参政権が実現して初の衆院選(定数466、沖縄を除く)結果について、女性議員の大量当選を大見出しで報じた。「連記制の魔術」(毎日新聞)とされた39人の大量当選はなぜ起きたのか。 46年の衆院選は、それまでの中選挙区制に代わり「大選挙区制限連記制」で実施された。戦中の議員の地盤を覆すのが導入の目的だった。選挙区は県単位が原則の「大選挙区」で、人口の多い7都道府県は2選挙区に分割された。各選挙区の定数は人口によって配分、最小4、最大14となった。 有権者が投票できる候補者は、定数10以下の選挙区が2人、定数11以上は3人とする「制限連記制」とした。候補者1人を選ぶ「単記制」は「投票が一部候補者に集中する」(堀切内務相)との理由で採用されなかった。 大選挙区制は、有権者が候補者を定数分選ぶ「完全連記制」が世界の主流だった。多数の支持を得た政党の議席独占を想定した制度だが、日本には政党政治が定着していないとして見送られた。 政党より個人を選ぶ傾向が強い中で、制限連記制は女性に有利に働いた。当時の毎日新聞は「立会人に聞くと、(3名連記の選挙区では)男2人、1人は女という票がかなりあった」と報じている。 選挙制度に詳しい田中宗孝日本大教授は、立候補者2770人のうち女性は79人に過ぎなかったため、こうした投票行動から「相対的に女性候補が当選ラインに達したのではないか」と指摘する。 女性候補者数で目立ったのが、公職追放された夫や兄弟の「身代わり」候補や、婦人参政権運動にかかわった候補だ。一方で、主婦や農婦が出馬し、一人で演説して回り、お金をかけない選挙戦を展開したケースもある。山下泰子文京学院大教授は「敗戦直後は貧しく、誰もが同じ土俵で戦えたのではないか」とみる。 しかし、政府・与党から見直し論が起き、次の47年衆院選から中選挙区単記制が復活。女性議員は15人に激減した。制度改正は保守陣営の「左派対策」だったが、女性軽視の意識も根底にあった。選挙法改正案審議で、自由党議員が委員会傍聴に来た女性議員に「婦人代議士は今度の選挙で締め出す」と言い放ち、乱闘騒ぎになった。 その後、80年代まで衆院選の女性当選者は10人前後で低迷する。岩本美砂子三重大教授は理由として、地方議員、官僚という最大政党・自民党の「国会議員候補供給源」に女性が少なかったこと、後継者として妻より息子が好まれたことなどを挙げる。女性議員が増加に転じるのは、96年の小選挙区比例代表並立制実施後だった。【政治部・堀井恵里子】 ◇「婦人参政権」触れず--45年12月18日付の毎日新聞 改正選挙法が公布された翌日の1945年12月18日付の毎日新聞には、「改正選挙法きのふ公布」という目立たない記事があるだけで、「婦人参政権」の文字は見当たらない。 扱いが大きかったのは、同年10月12日付の「臨時議会十二月初旬召集」の記事だ。「選挙法改正を上程」「婦人参政、年齢引下、大選挙区制へ」の見出しがある。14日付には、選挙権が満20歳から付与されることが同様の大きさで扱われ、「選挙権は男女共」という見出しが記事を飾った。【生活家庭部・松村由利子】 ◇売春防止法/男女共同参画基本法/DV防止法…女性議員のなし遂げたこと 「最初に当選した女性議員39人に、団結すべきだと市川(房枝)が働きかけ、ここに婦人議員クラブの事務所が置かれました。46年4月でバラック建て。市川はいつも火付け役でした」。東京・代々木の婦選会館で、市川房枝記念会の山口みつ子常務理事(70)が話す。山口さんは、81年に亡くなった市川氏の秘書だった。 同記念会によると、当時の女性議員たちは労働省(当時)婦人少年局存続や公娼(こうしょう)制度復活反対の運動に尽くした。53年に参院議員になると市川氏は超党派で売春禁止に取り組み、56年に売春防止法が制定された。61年には酔っ払い取締法の制定にもこぎつけ「女性議員は男から女を取り上げ、酒も取り上げるのか」と揶揄(やゆ)されたという。 90年代に入り女性議員の活躍が目立つようになる。95年、北京女性会議で、男女平等の推進を盛り込んだ北京宣言と行動綱領が採択されたことも影響した。 99年、男女共同参画社会基本法が制定された。法案の提出前に、さきがけ参院議員だった堂本暁子・千葉県知事(73)は与党政策調整会議で、「私たちにとって北京綱領は大事です」と切り出した。「政策決定の場に女性がいたから法案を俎上(そじょう)に載せることができた」と振り返る。 01年には、暴力に苦しむ女性たちを救いたいという超党派の女性議員たちの思いが、DV(ドメスティック・バイオレンス)防止法として結実した。当時、法案づくりにかかわった民主党の小宮山洋子・衆院議員(57)は「女性議員の情熱で一言一句をつくった。暴力を振るう男性側にはできないこと」と話す。 今、多くの女性団体は男女共同参画に対するバックラッシュ(揺り戻し)を警戒している。記念会の山口さんは「今回当選した43人には、ジェンダー(社会的、文化的な性差)解放の役割を忘れないでほしい」と訴える。【東京社会部・川俣享子】 ============== 2/2へつづく
by alfayoko2005
| 2005-12-20 10:02
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