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銀の森へ メゾン・ド・ヒミコ 沢木耕太郎 (朝日 2005/08/01夕刊芸能面)
ゲイ施設舞台に幸せな物語展開 伝説のゲイバー「卑弥呼」のママが、とつぜん店を畳んで、ゲイのための老人ホームを作った。 それがこの映画の出発点だ。 ある日、沙織という野暮(やぼ)ったい娘のところに、春彦というハンサムな青年が現れ、しつこく迫る。君の父親が不治の病に倒れてしまった。日曜でいいから面倒を見にきてくれないか。金は出す。君には借金があるのだろう? すぐに、沙織が伝説のママである卑弥呼の娘であり、春彦が卑弥呼の愛人であることが明らかにされる。 このアクロバティックな人間関係と、ゲイのための老人ホームという奇抜な舞台設定のため、人によっては思わず「引いて」しまうかもしれない。私も最初はそうだった。しかし、見ているうちに、少しずつ前にのめっていくのがわかった。のめっていったのは、もちろん体ではなく気持ちである。 沙織は、父親がゲイとしての道を選んだために結果的に母親ともども捨てられ、さらに死んでしまった母親の医療費を支払うために借金まで背負っている。その沙織が、死の床にある父親の世話と、彼を中心に存在する老人ホームの手伝いをするために日曜ごとに通うことになる。 古武士のような風格を持つ田中泯がママの卑弥呼、その古武士に付き従う小姓のような青年春彦にオダギリジョー、そして常に何かに怒っているような表情を浮かベでいる娘沙織を柴咲コウが演じている。 とりわけ柴咲コウが、沙織という役をコミカルに、生き生きと演じている。だが、それ以上に印象的なのは、三人の周辺にほとんど名前も顔も知らない役者たちがゲイとして配されていることである。その確かな存在感が、ゲイのための老人ホームという仮構にどっしりとしたリアリティーを与えることになっている。 やがて、若い沙織と春彦とのあいだに微妙な感情が生まれかかる。しかし、そこで「恋」が生まれるなどということにはならない。なにしろ春彦は「ゲイ」なのだ。 そこで生まれかかったものをどう処理するか。それがこの映画の重要な屈折点になるが、そこを巧みにすり抜けさせることで、最後のハッピーエンドを準備することになる。 そう、これは酒落(しゃれ)たハッピーエンドを持つ映画なのだ。いや、ハッピーエンドだけではない。楽しいプロセスを持っている。 それが可能だったのは、ひとつにこの製作者たちがゲイという少数派を特別視していなかったからだと思われる。ゲイにも喜びも悲しみもあるだろう。ストレートに喜びも悲しみもあるように。ただし、少数派であるということによる「負荷」は、いくらか多めにかかっているかもしれないが、というのが基本的な認識だったと思われるのだ。 クライマックス。捨てられた者としての沙織が、捨てた者としての卑弥呼にこれまでの思いを叩(たた)きつけるシーンがある。一対一で対峙(たいじ)した沙織が激しく言葉で斬(き)りつける。しかし、それを静かに聞いていた卑弥呼は、ほとんど一言で決着をつけてしまう。まるで居合抜きの一閃(いっせん)のような短い言葉ひとつで。 発端は新聞記事だったという。フィリピンにはゲイのための老人ホームがある。これを読んだ製作者たちが、その骨格にさまざまな要索を詰め込み、作ったのがこの「メゾン・ド・ヒミコ」という映画だった。そして、そのようにして詰め込まれた各要素は、分裂を起こすことなく柔らかく融合し、幸せな一本が生み出されることになった。 27日から東京・渋谷のシネマライズで上映。全国順次公開。 沢木耕太郎氏の「銀の森へ」は毎月1回、掲載します。 メゾン・ド・ヒミコ (映画公式サイト)
by alfayoko2005
| 2005-08-02 07:55
| Movies
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