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会社とは何か(中)富士ゼロックス会長小林陽太郎氏(経済教室) (日本経済 2005/08/30朝刊)
新たな「公共」の一翼担え CSRの認識深め、社会の公器に多様な価値 企業は社会の公器として経済的価値、社会的価値、人間的価値など多様な価値を生む。重要なのはこれらをバランスさせることで、それが本来の企業の社会的責任(CSR)の神髄である。そして今後、日本は「公共」の再定義を迫られる見通しで、企業も新たな役割を問われる。 利益は人間の健康さと同じ CSRがブームの様相を呈している。しかし、その議論には誤解が多いように思う。これらの誤解を解きながら、企業とは何かを考えたい。 CSRについての誤解の代表的なものとして以下の四つが挙げられる。すなわち(1)欧州で生まれた企業経営の新しい動きである(2)利潤追求よりも、社会貢献、環境配慮、法令順守を促している(3)いや応なく対応しなければならない、社会から企業に課せられた義務である(4)CSRで掲げられた要件はすべて同時に満たされなければならない――というものである。 企業は社会の一員として、社会から預かったお金、人、土地(場)などのさまざまな資産を活用して新たな価値を創造し、広く社会に役立っている。CSRはそうした企業と社会の関係をベースに、経営を広い視野で見ようという考え方だ。したがって、企業は社会においてどういう存在なのか、企業は何のために存在するのかを問うことが、CSRを考える出発点となる。 企業の目的は利潤追求だという考え方がある。企業にとって利益をあげることは必要不可欠だ。しかし、それが唯一の目的だろうか。「健康第一」というように、「健康」は人間が生きていくうえで必要不可欠だが、健康に生きてそのうえで何をしたいのかというのが、人生の目的であるはずだ。企業にとっての利益は、人間にとっての健康と似ている。極めて大切だが、それそのものが最終目的ではない。 CSRの考え方に立脚すれば、企業の目的は、社会の役に立つことである。だが、人生の目的が人それぞれにあるように、個々の企業による社会への役立ち方は、それぞれ異なる。多くの企業は、その目的を企業理念や創業の精神などで明らかにし、伝承している。そして、その目的をどのような規範をもって成し遂げるかを価値理念や行動規範に定め、活動を規律づける企業も多い。企業の目的や規範を明示することは、CSRの重要な柱である。 社会的・人間的な価値も大きな柱 企業は組織力を利用して効率的、効果的な価値創造を行うことにより、理念に掲げた目的達成を目指すわけだが、企業が創造する価値は、経済的価値、社会的価値、人間的価値など多様である。 例えば従業員にとっては、成長、自己実現、達成感、他者からの認知などは重要な価値である。介護など低賃金・重労働だが人の役に立っていることが実感できる仕事に誇りを持って取り組んでいる人をみれば、これらの価値が働き手にとっていかに重要かがわかる。 地域社会はどうだろう。企業は雇用を生み、地域活性化に寄与する。街のにぎわいは治安上の効果もあるだろう。企業が撤退したため、街が寂れ商店街に人通りがなくなる、そういう光景をみると、それまでその企業がどんな価値を提供していたのかが実感できる。 これらの価値はそれぞれ独立した価値であり、経済的価値と同等に扱われるべきである。従業員を大切にすることは、彼らのやる気を刺激し結果として収益に貢献するが、収益に結びつかなくても彼らの人間性は、もともと大切なのである。 CSRは、こうした経済的価値以外の重要な価値にも目を向けるように促している。しかし、皮肉にもこのことが、(2)のような誤解、すなわち、経済性より社会性重視という誤解を生むこととなる。CSRの神髄はあくまで多様な価値、あるいは利害関係者のニーズへのバランスのとれた対応で、そのために経済的価値は不可欠である。 企業理念に掲げられた目的や価値基準は、事業戦略・計画を通して具体化され、年度予算、各部門の目標、個人の業績評価にまで展開され、組織に徹底されていく。そしてそれらの活動は、Plan-Do-Check-Actionというサイクルを通して改善されていく。こうしたマネジメントシステムを構築することは、CSRを支える重要な要素である。言うまでもなく、これらの活動は、社会の要請により受け身で行うものではなく、持続的成長のために自主的に行うものだ。従って、(3)社会から課せられた義務という認識も一面的である。 経営者にとっては、こうした仕組みがきちんと機能しているのかを監督することと、膨大な課題に優先順位をつけることが重要な役割となる。「二年間は環境対策を充実させるために、株主の皆さんには配当を少し我慢してもらい、対策費を計上しよう」「業績悪化のなか、雇用を維持するには従業員には賃金カットを受け入れてもらおう」といった困難な判断を行うのは経営者である。 ここで(4)が誤解であることがわかる。CSRに掲げられる要請に、すべて同時に応える必要はない。経営者がその時々の企業の状態、社会環境を勘案して、社会の要請に優先順位づけをすることをCSRは否定していない。赤字続きで、存続の危機にあるような企業にもCSRの視点は必要だが、危機を乗り切るまでは、経済的価値の比重が極度に高まるのは必然であり、CSRはそれを否定しないのである。 コーポレートガバナンス(企業統治)という言葉がある。それは、社外取締役を導入して、実績の出ない経営者をクビにできるようにする制度だとの意見も聞こえる。しかし、この認識も一面的だ。ガバナンスとは、経営者の意思決定やリーダーシップ、理念を組織に徹底させるための仕組みなどが健全に機能するように支えることを指す。社外取締役も社外の良識ある視点を意思決定に持ち込むことによって、判断を間違えないようにするものだ。したがって、コーポレートガバナンスは、CSRが持続的に保たれることを担保する哲学と仕組みと言えよう。 少子化や若者の失業の面で貢献 CSRは「社会的」や「責任」という語感から、本業の利益や自由度を圧迫する義務的、受動的な縛りとして誤解されやすい。しかしその本質はむしろ、社会の公器としての「企業のあり方」を問う考え方としてとらえるべきである。そしてその広がりは、経営活動全般にわたる。CSRは経営そのものなのである。 そういう理解に立つとCSRの考え方が決して新しいものではないことに気付く。老舗の家訓などにあるような日本の商売道は、CSRの考え方と同一である。また、そうした企業のあり方は、市場原理主義傾向の強い米国においてさえも、長年にわたり尊敬をかち得ている企業が皆とっている路線である。したがって、(1)の欧州発の動きという理解も誤解である。 では現在のCSRには全く新しい要素がないのか。もちろん、そうではない。時代が変われば社会の要請も当然変わる。現代社会が企業に何を求めているのか。CSRはそれに関するさまざまな視点を提供している。 戦後の日本企業は、本来行政が提供すべき福祉のかなりの部分を肩代わりしてきた。しかし現在、「小さな政府」に向かう行政と「選択と集中」を志向する企業のはざまで、公共サービスの空洞化が進んでいる。今後必要とされる「公共」とは何か、それを誰がどうやって担っていくか。従来とは違った新たな「公共」を打ち立てることが、我々の課題となっている。そのなかで、企業が社会に対して何ができるかを考えることは、企業の存在意義を改めて見直す重要な一歩となろう。 例えば、現在、少子化や若年失業が将来に向けての大きな問題となっている。この分野で企業ができることは多く、地域によってはすでに取り組みも始まっている。 企業内の保育施設の整備や出産後の職場復帰を促す人事制度などは、脱少子化に有効だろう。また、働くことの意味を実感できず、進路に悩む学生に、職業体験の場を提供することの教育効果は、計り知れない。 こうした分野に個々の企業が、自らのスキル、人材、経験などを出し合って協力することで、日本社会は、大きく変わるだろう。新たな時代の企業のあり方がすでに模索され始めているのだ。 こばやし・ようたろう33年生まれ。慶応大卒、前経済同友会代表幹事
by alfayoko2005
| 2005-08-30 16:24
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