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1/2からつづく
◇堀切内務相の登場、カギに--中央大社会科学研究所客員研究員(日本政治思想史)・菅原和子さん 婦人参政権成立過程の真相に迫るには占領史や政治史、女性史を総合的にみる必要がある。戦前、難渋を極めた婦人参政権の獲得がなぜ敗戦4カ月後、急転直下の解決となったのか。カギは幣原内閣の堀切善次郎内務相の登場にある。 堀切氏は、ポツダム宣言に基づき人民投票(国民投票)で天皇制護持の問題が決まると想定。占領軍による天皇の処遇が定まらず、国民に天皇制批判の自由をも認めた人権指令が出され、為政者らが衝撃を受けていた当時、堀切氏は「中正穏健」な婦人への参政権付与に天皇制護持の活路を見いだした。それによって占領軍の民主化の要請にも応え、さらに婦人参政権運動にも理解を示して解決するという妙味ある手綱さばきをやってのけたのである。 結局、人民投票は実施されなかったが、私がそうした結論に行き着いたのは、堀切氏自身の小文を目にした時だった。第一次世界大戦で敗れてワイマール共和国が誕生したドイツで、領土帰属を決める人民投票実施に同氏が直接かかわったことを書いた内容だ。 女性に初めて参政権を与えた人民投票は、ドイツ側に有利に働いた。この経験が戦後の日本とダブったのではないか。つまり、ドイツの領土問題が日本の天皇制護持の問題に重なり、人民投票は必定と考え、天皇制護持のために女性票の活用を考えた。 では、マッカーサー元帥はなぜ5大改革の第一に「婦人解放」を挙げたのか。彼はフェミニストで、加藤シヅエ氏の訴えを聞き入れるだけの理解があった。日本女性の抑圧状況を詳述した加藤氏の著作の影響も考えられる。彼の意図には占領統治のための効用といった側面があり、女性を非軍事化や民主化の推進力とみていたところもある。 一方、市川房枝氏は戦後すぐに活動を再開したが、婦人参政権付与決定に直接関与する余地はなかった。ただ、結果として、二十数年来の婦人参政権運動が堀切氏を通して間接的に反映されたことにはなった。堀切氏の行動が、「婦人参政権は日本政府の手で」と願っていた市川氏の支えとなったのは間違いない。惜しむべきは、東久邇内閣での議会制度審議会のメンバーに堀切氏らと共に選ばれていたが、堀切氏が同審議会を廃止し、内務省主導で進めたため、結局活躍する機会がなかったことだ。(談) (その3止) ◇課題、性差を超えて--女性議員アンケート ◇実質的平等まだ--選挙時、心ない言葉も 戦後初の総選挙で当選した女性39人は、それぞれの理想を掲げ、社会を変革しようと尽力した。その志や取り組みは、現在の議員たちとどう重なるのだろうか。毎日新聞は今秋の総選挙で当選した女性議員43人にアンケートし、思いの変遷を探った。 (表は4問の回答の中から一つを選んで掲載しました・敬称略) 最初の女性議員たちが立候補した動機を見ると、「戦争をしない、人々が安心して働ける国に(柄沢とし子)」「戦争反対、婦人労働6時間制を唱えて立った(山口シヅエ)」など、平和の希求、労働環境の向上を訴えた人が多い。「男女共学、婦人に不利な法律の撤廃、母子の保護(村島喜代)」といった女性政策に加え、食糧難の緩和も大きな課題だった。 今秋当選した議員たちの回答には、「子供たちが夢を持てる格差のない社会(井沢京子)」「性別や年齢、障害の有無に関係なく、誰もが充足感を見いだせるユニバーサルな社会づくり(野田聖子)」と、性差を超えた課題が挙げられている。 その半面、「雇用をはじめ社会生活で男女の実質的な平等の条件を整備していくのが課題(小宮山泰子)」「まだまだ家族や社会における平等が女性に与えられていると言えず、あらゆる差別の撤廃に努力したい(郡和子)」など、男女平等を掲げる人も少なくなかった。均等法など制度があっても、なお女性の社会進出が阻まれている実態がうかがえる。 こうした状況を、なかなか女性議員の数が増えなかった要因と見る人も目立つ。「日本人の保守的な感覚が男女の仕事の区分化を長く継続させ、女性が国政で活躍できる環境の醸成が遅れたことを示す(西本勝子)」「就職時や就業後、女性にはさまざまな障害がのしかかる。39人という数が塗り替えられなかったのも、その障害の大きさを物語る(川条志嘉)」。自身の経験として、選挙時に「女性だから政策はマニフェストに毛がはえたものでいい」「子供も産んだことのないような女に政治を任せられるか」と言われたことを寄せた議員も。 猪口邦子・男女共同参画担当相は、「政府は2020年までにさまざまな分野で指導的地位の30%が女性になることを目指している。女性の期待に応えられるよう頑張りたい」と回答した。 初の女性議員たちへの尊敬の思いは共通している。「戦争の辛酸をなめた女性たちが、人間として認められ初めて得た参政権(石井郁子)」「39人の当選は当時の女性の心の叫びが凝縮したもの(古屋範子)」「彼女たちのおかげで現在私たちが国会の場で活躍できている(仲野博子)」と感動を込めた言葉が並んだ。【生活家庭部・松村由利子】 ============== ■女性議員増やすには-- ◆日本の場合 ◇制度、争点づくり必要 日本の衆院議員に女性が占める割合は約9%。列国議会同盟(IPU)の今年10月時点の調査で見ると、全体の102位と振るわない。先進国であるにもかかわらず下位なのは、一体なぜだろう。制度や女性たちの運動から探ってみた。 進藤久美子・東洋英和女学院大教授(米女性史、ジェンダー学)は「性別役割意識の強い国では、比例代表名簿の一定割合を女性に充てる、クオータ制のような方法が必要ではないか」と見る。クオータ制は、公的機関の委員や政党の候補者の一定比率を女性に割り当てる制度だ。 クオータ制のない米国では、70年代から女性団体が候補者リストを作って人材を発掘し、女性議員を増やす土壌となったという。85年に設立された民主党支持組織「エミリーズ・リスト」もその一つ。 日本では、「女性議員を増やすネットワークしなの」が、元長野県下諏訪町議、樽川通子さんの呼びかけで96年に誕生。超党派で選挙のノウハウや地方自治を学ぶ講座を開いてきた。 99年に発足したWINWIN(ウィンウィン)も超党派。赤松良子元文相らの呼びかけで発足した。米の「エミリーズ・リスト」に倣って新人候補を選び、会員は応援したい候補に献金する。 今秋の衆院選では9人に援助したが、一部会員から候補者選考に異論が出た。「超党派は女性議員を増やすのに良いと考えてきたが、今後は所属政党の政策チェックが必要かもしれない」と赤松さん。 「しなの」の樽川さんは「女性議員に求められる政策課題や資質も変化するのでしょう」と語る。当初から活動を10年と決め、今年度で区切りをつける。 進藤教授は争点作りの必要性も指摘。「米国では70年代、母子家庭の増加や妊娠中絶の是非が大きな問題になった。女性票を意識した課題の設定が重要」と話す。【生活家庭部・大和田香織】 ◆ノルウェーの場合 ◇若い世代に家庭志向も--国会議員、インガ・エンガ氏(57) 1913年に女性が国政参政権を得たノルウェーで、政界への進出が飛躍的に高まったのは88年の「公的委員会の委員はどちらの性も40%以上いなければならない」とするクオータ制の導入後です。 「適任かどうかで選ぶべきだ」と異論がありましたが導入後、新しい土壌から人材を選ぶことで選択の幅が広がったと気づきました。 ビジネス界にも同じ風を入れるべく、上場企業の経営陣の4割を女性にする改革が進んでいます。人口460万人弱の我が国では、労働力確保の観点からも女性の社会参加が重要です。 しかし地方を中心に男性優位の風潮は残り、地方議会では女性議員の割合が35%前後です。また若い女性の間に、政治参加や労働より「子供と家庭にいたい」という傾向が強まっています。「社会に出ない権利もある」との理屈です。第二次大戦後、女性の権利拡大に尽力してきた60代、70代からは想像できない状況です。先人が勝ち取ってきた権利の放棄でしかありません。 私は94年から中部の都市で地方議員、首長を務め、01年に国会議員に当選しました。息子の通う学校や地元の道路を良くしたいとの身近な関心が政治活動の始まりでした。一人一人がかかわることで社会は変わっていくのです。【聞き手/欧州総局・山科武司】 ◆韓国の場合 ◇法改正、意識変化で急増--国会議員・韓明淑(ハン・ミョンスク)氏(61) 韓国国会に占める女性議員の割合は、昨年4月の総選挙で13・7%になり96年(3・7%)に比べ大きく躍進しました。 女性議員が急増した原因は3点あります。一つは、比例候補の半数を女性にすることを義務付けた(2002年3月の)政党法改正。もう一つは前回選挙から改正選挙法が適用され、金のかからない選挙に変わったことです。女性候補は組織も資金もないので、女性が立候補できる環境づくりも必要です。3番目は、国民意識が変化し、女性議員はクリーンな政治を行うという期待感が生まれたことです。 女性議員枠を決めるクオータ制をめぐっては賛否がありますが、過渡的な措置として有効と考えます。省庁に女性政策の独立機関を設置することも同様です。 私は01年に女性省(現在の女性家族省の前身)長官を務めましたが、女性問題を主要課題に押し上げる点では、効果を上げました。 政府や国会が女性問題に集中的に取り組んだ結果、政府は05年3月、戸主制と戸籍制を08年から廃止することを決めました。60年代から訴え続けた課題ですが、現政権で根本的に改革できたのは大きな成果です。 韓国も日本も、家父長制的な制度や社会意識をどう克服するかが課題です。日本の女性議員や女性閣僚とも連携し、改革を進めたいと思います。【聞き手/ソウル堀山明子】 ============== ◇「質」問われる時代に--生活家庭部長・小島明日奈 「すぐうれしいといえず、しばらく黙っていてからうれしいといいました」。市川房枝は、参政権実現直後の感想を、後にそう振り返っている(「近代日本女性史への証言」)。戦前から参政権獲得運動に情熱を注いだが、「戦争に負けてもらったんじゃ肩身が狭い」とも漏らしていた。 戦後60年、女性たちが自身で勝ち取ったと言えるものは、何だろう。 今年9月の衆院選で、「女性候補は票になる」と自民党は女性を比例名簿の上位に並べた。ある党では「女性を比例上位にと訴えると『逆差別だ』と拒まれた」と言う。どちらも、女性の政治家を本気で育てようとしているとは思えない。 女性の法的地位は確かに変わった。憲法に男女平等が明記され、家制度がなくなった。86年に男女雇用機会均等法が、99年に男女共同参画社会基本法が施行された。 しかし、建前と本音は違う。差別はより見えにくくなった。 バブル崩壊後男女ともに採用が減り、「女性ゆえの差別」を訴えづらくなった。「男は仕事、女は家事も育児も介護も仕事も」。その性別役割意識を反映した働き方や税、年金制度を変えなければ、一人一人が能力を発揮できず、社会は行き詰まる。そう何度も指摘され、現に少子化も進む一方なのに、男性優位社会は既得権益を手放そうとしない。ルールを変えずに「入ってきていいよ、能力とやる気があるなら」と言っているに過ぎない。 なぜ女性が議員として、また有権者として政治にかかわる必要があるのか。企業や地域で責任を担うべきなのか。当事者として声をあげなければ、自ら政策やルールをつくらなければ、性別にかかわりなく、安心して暮らせる社会にできないのだ。 「女性なら誰でもいい」という時代は終わった。「勝ち組」女性がでてきた結果、男性との椅子取りゲームはますます厳しくなるだろう。 組織とも無縁ではいられない。理念と現実、調整と妥協。いい意味でのしたたかさも身につけ、声を「形」にできるかどうか。「質」を問われる時代がやっときた。この60年は無駄ではなかった。そう信じている。 ============== ■その時、子どもだった ◇政治の話、聞かなかった--故榊原千代元衆院議員の長男で言語交流研究所ヒッポファミリークラブ代表理事・榊原陽さん(75) 母が戦後初の衆院選に立候補した46年は、福島にいました。開戦前に福島高等商業学校(現福島大学)の教授だった父が自宅隣に学生寮を建て、家には政治家や医師、教師など女性が出入りしていた。県内に実家のあった内務大臣の堀切善次郎さんやその兄、善兵衛さんも親しく行き来していました。 出馬のいきさつは知らないが、戦前、父も選挙に出たことがあり、特別なこととは思わなかったようだ。母も、女学校の教師の経験から、その延長のように受け止めていた節がある。「女性も出られるなら、出たら」「そうね」といった調子で決まったんだと思います。 議員になった母は、東京暮らしが多く、支援者を連れては上京し、国会などを案内するのが私の仕事のようになりました。友人や父の教え子たちは、選挙応援と称して「学生社会主義同盟」という組織をつくりました。私は関心がなくて酒ばかり飲んでいたけどね。 政治の話は私にはあまりしなかったけれど、以前から「姦通(かんつう)罪で女性だけが罪に問われるのはおかしい」と言っていました。女性だけで裁判をすると言い、男性議員が困惑していると支援者に聞いたことがあります。 厳しい母で、いたずらをすると教会のざんげ室に閉じ込められた。以前から家にいないことが多く、議員になって離れて暮らしても、寂しいとは思わなかった。 講演会では、母が父の倍くらい講演料をもらうので「おやじがかわいそう」と感じたが、両親はリベラルなキリスト教徒で「家庭の中の天皇制をやめましょう」が母の呼びかけの言葉。父もそんな母をやさしく見守り、仲のよい夫婦でした。【生活家庭部・大和田香織】 ============== シリーズへのご意見、ご感想をお寄せください。〒100-8051(住所不要)毎日新聞東京本社編集局「戦後60年の原点」係。ファクスは03・3212・0635。メールはsengo60@mbx.mainichi.co.jp ============== <取材協力、資料提供/サンデー毎日編集部・岩尾光代、情報調査部・河村祥子、デザイン/東京デザイン室、レイアウト/仙道知子、山本亮子> 次回のテーマは 「天皇の人間宣言」 戦後60年の原点:婦人参政権 天皇制維持を意図 <17~19面に特集> 女性に参政権を与える改正選挙法が公布されたのは、60年前の1945年12月17日だった。その2カ月前の10月11日。発足直後の幣原内閣は午後1時から閣議を開いた。堀切善次郎内相が提案した。女性に参政権を与え、衆院に大選挙区制限連記制を導入する……。「臨時議会で審議し、早期に総選挙を行う」。幣原喜重郎首相が賛成し、婦人参政権導入方針が決まった。 ◇政府「穏健な女性票」に期待 閣議終了1時間後、連合国軍総司令部(GHQ)本部で、首相はマッカーサー元帥に面会した。元帥は首相に「婦人の解放」を筆頭とする「5大改革」を指示。首相が閣議の方針を伝えると、元帥は評価した。「エクセレント(よろしい)」。絶妙のタイミングだった。 元帥は来日前から婦人参政権の付与を考えていた。「婦人参政権はマッカーサーの贈り物」という解釈が広まったのはそのためだ。しかし、堀切氏にはGHQの民主化要請に応える以外にまったく別の意図があった。 「私の信念は国体護持にあり、全国民も同じ考えと信じている」。堀切氏は就任会見で強調した。天皇制維持は政府の至上命令だった。改正案の提案理由で堀切氏は「激動の今日、婦人の中正穏健な考えは期待していい」と婦人参政権導入の意味を強調した。後年「日本には敗戦後いろいろ難しい問題があった。そういう関係で婦人参政権はぜひ実施したいと考えた」とも発言している。 「難しい問題」は天皇制の行方だった。発言からは、急激な変革を避けて「国体護持」のため、「右や左に偏らない中正穏健な婦人票」(堀切氏)を活用しようという意図が浮かび上がる。 中央大社会科学研究所の菅原和子客員研究員は「堀切氏は国体を決める人民(国民)投票を想定していた。第一次世界大戦に敗れたドイツは、婦人参政権を認めた新選挙法で領土帰属の国民投票を実施し、有利な結果を導いた。これに関与した堀切氏は、ドイツの経験を戦後日本に重ね、女性票に期待したのでは」と分析する。【有田浩子】 ◇ ◇ 毎日新聞は特集「戦後60年の原点」シリーズを毎月1~2回掲載しています。今月は「婦人参政権」です。学校や家庭でご利用ください。 ============== ■人物略歴 ◇堀切善次郎(1884~1979) 東京帝大卒。内務省入省。19年、ドイツのワイマール共和国に派遣されて選挙法を学び、領土帰属をめぐる人民投票の規則策定に参画した。
by alfayoko2005
| 2005-12-20 10:05
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