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現代日本文化の中の伝統主義者 vs. フェミニスト
――〈自然 vs. 相互作用〉論争とその社会的意味づけ―― 財団法人日本性教育協会ウェブサイト ハワイ大学ジョン・A・バーンズ医学校教授 ミルトン・ダイアモンド 訳/編 大阪府立大学人間社会学部助教授 東 優子 【今回の寄稿の背景】 「双子のひとりが医療事故によってペニスを失い、女児として育てられた結果、思春期を迎えてなおうまく適応している」――この主人公は長く匿名だったこともあり、「性転換治療」を担当した性科学者の名を冠して「マネーの双子」とも呼ばれてきた。そしてこの臨床事例は「ジェンダー・アイデンティティや性役割行動は学習される」ことを決定づける証拠として、心理学を初めとするさまざまな専門書に引用され、インターセックスの治療方針にも影響を与えてきた。 「マネーの双子」がその後辿った悲劇を大衆誌『ローリングストーン』のコラムで発表したジャーナリストのジョン・コラピントは、全米雑誌賞を受賞した後、『As Nature Made Him(自然がつくったままの姿で)』を出版した。日本では2000年に『ブレンダと呼ばれた少年――ジョンズ・ホプキンス病院で何が起きたのか』という邦題で無名舎より出版され、その後絶版となっていたが、2005年には扶桑社が複刊している。そして、今回の特別寄稿を掲載するに至った背景には、この復刊と前後して一部のメディアで展開されてきた「ジェンダー・フリー・バッシング」がある。 『ブレンダと呼ばれた少年』には、デイビッドの治療方針の根拠となった「ジェンダーの発達」に関する仮説をめぐって、異なる主張を展開した二人の性科学者が登場する。ひとりは前出の性科学者ジョン・マネー博士であり、もうひとりは当該事例の追跡調査により「性転換治療」の失敗を明らかにした、ハワイ大学のミルトン・ダイアモンド博士である。(二人の論点の違いについては、『現代性教育研究月報』(2001年10月号)に掲載されたダイアモンド博士の講演記録「人は性別を変えられるか」に詳しいので、ご参照いただきたい。) マネー説の破綻を告発したダイアモンド博士は、当初から一貫して、ジェンダーの発達に与える生物学的要素を無視することはできないと主張してきた。その主張が今日の日本社会における「男女共同参画」「ジェンダー・フリー」「フェミニズム」を否定する立場にすり替えられるという事態が発生している。『世界日報』(2005年2月16日)の博士へのインタビュー記事をはじめとして、ダイアモンド説がバッシング派に理論的根拠を与える存在として繰り返し引用されているのである。 ダイアモンド博士の真意は、短いコメントながら、朝日新聞(2005年6月21日夕刊:転載記事参照)や東京新聞(2005年7月25日朝刊)などですでに伝えられているとおりである。今回の特別寄稿はそれらを補足するものである。(編集部) 記者席:「ブレンダ」の悲劇に想う 現代日本文化の中の伝統主義者vs.フェミニスト このところ、朝日新聞や東京新聞の記者、日本に住む教育関係者から相次いで問い合わせがありました。私の見解が、日本で起こっている文化的・政治的論争に不意に差し挟まれているというので、改めてこれまでの研究や研究成果から導き出される見解などについてたずねられたのです。 論争の争点は、「正常な性的発達とはどのようにして起こるものであるか、政府をはじめとする社会の諸機関(特に教育や法律や制度に係る専門家)は、それについてどう対応すべきか」にあります。日本社会における男の子と女の子、女性と男性の扱いをどうすべきかで、対立があるのです。 私の理解を以下に整理します。 対立する一方の考え方は、私が「伝統主義者」と呼ぶ立場によるものです。彼らは、社会において女性と男性で役割・地位・(教育や就職の)機会が異なるのは、それが「自然」なことだからと考えます。男性と女性は生まれつき能力や気質において異なっているのだから、日本社会で男女が異なる扱いを受けることは、当然かつ適切である、と。さらには、日本的な風習を受け継いでいくという意味でも、生物学的に異なる存在である男女に自然に備わっている能力や性質が活かされ、国民生活が繁栄していくという意味でも、社会は男女に異なる扱いを続けていくべきだと考えるのです。 こうした伝統主義者は、私が「 John/Joan 事例」として発表した研究について、その成果が自分たちの立場を支持するものだと考えています。「John/Joan 事例」を簡単に説明すると、1965年に生まれたデイビッド・ライマー(私の論文では“John”として紹介)が包皮切除術でペニスを失うという事故に見舞われ、女の子(私の論文では“Joan”として紹介)として育てられた。しかし、それを受け入れることができなかった、というものです。 当時、ある心理学者(編集部注:ジョン・マネー博士)のアドバイスに従い、彼の性器部分は女性の性器にみえるように再建され、女児として育てられ、思春期には女の子らしい胸や臀部が発達するように、それを誘発するための女性ホルモンが与えられました。あらゆる努力を尽くしてなお、デイビッドには男性のアイデンティティが芽生え、少年/男性として生活できないなら自殺するとまで訴えたのです。 伝統主義者は、私がJohn/Joan事例に見出した結果が、「本性は変えることができない(Nature will out)」から、現状(における男女の異なる扱い)もまた適切であるとする論証に使えると見ています。デイビッドは本来の男性自身に戻ったのであり、男性と女性が生まれつき異なるということは、男女に異なる扱いをする文化を正当化する理由になると彼らは信じていて、私もまたそう信じていると考えているようです。 もう一方の考え方は、フェミニストとその支援者によるもので、これとは対照的です。つまり、性役割であるとか、社会における扱われ方や社会的期待が男女で異なっているのは、長年にわたって培われた時代錯誤的な文化的神話や因習によるものであって、あらゆるセックスおよびジェンダー格差は、それが養育や文化的適応および社会化の結果であるという考えに立って改善されていくべきだというものです。こうした考えは、John(編集部注:デイビッド)の治療が成功したとする、初期の、誤った報告に大きく影響されています。初期の報告では、女児として養育されたことにJohn自身がうまく適応したと報告されていたのです。 この報告により、人は性心理的にジェンダー・レスの状態で生まれ、ジェンダーに特徴的だと思われるものはもっぱら養育によるものだというフェミニストの主張が生まれたのです。そしてフェミニストは、女性として扱われた男性が女性としてうまく適応できたのであれば、教育・就労・家庭内の関係性をはじめとする、あらゆる事柄について男女が平等に扱われるよう、子どもの教育のしかたを変え、女性に与えられている機会を改善していくべきだと主張しています。フェミニストの強い信念は、社会的な変化をもたらすための有効な手段として、法律(編集部注:男女共同参画法)を成立させるに至っています。そして、教育や就労、社会領域や機会におけるさまざまなジェンダー・バイアスとそれに起因する差別を取り除こうとする社会運動・活動・議論は「ジェンダー・フリー」と呼ばれています。 しかしながら、私がJohn/Joan事例に関する欺瞞を解明したことが、「ジェンダー・フリー」運動を疑問に付すことにつながってしまっているようです。(当初の報告とは異なり)デイビッドは女子に性を移行することを受け入れませんでした。14歳から男性として生活するようになり、25歳で女性と結婚し、彼女の3人の子どもの養父になっていたのです。 確かに、デイビッドは養育過程で受けた教育や医療マネージメントによって、女児あるいは女性に転向することはありませんでした。しかし、だからといって、私が日本の伝統主義者の主張こそが正しく、フェミニストの主張はまったく間違っていると考えているかといえば、そうではありません。私は、人々の行動は生物学的・本質的な作用(力)と社会的・文化的な作用(力)の双方が組み合わさった結果であると考えています。こうした力は相互作用するものであり、人によってどういったコンビネーションがどういった結果を生むかを予測することなどできません。 よく知られた話ですが、たとえば、フェミニズムが登場するずっと以前の将軍の時代にだって、女性になりたいと思う男性や、男性になりたいと思う女性がいたわけですし、男性に対してエロティックな感情を抱き、恋愛関係をもつ男性や、女性に対してエロティックな感情を抱き、恋愛関係をもつ女性もいたわけです。彼らのありようは、自身の中に生まれる確信と社会状況の双方に反応した結果なのです。 性的発達に関する考え方はいろいろあって、さまざまな論争に引用されることもあるでしょうから、ここに私の考えを整理しておきます。 1.男性も女性も、祖先から進化した結果や家系的な遺伝、子宮内環境や健康状態といった特定のバックグラウンドをもって生まれてきますが、胎生期にもっとも強い影響を及ぼすのは、遺伝子の内分泌の働きです。 2.発達については、少なくとも5つのレベルから捉える必要があります。記憶しやすいよう、PRIMOと私が名づけたその5つとは、以下のとおりです。 P=ジェンダー・パターン 3.子どもが育つ環境(家庭・社会・文化、その他)は、性的発達やジェンダー発達へのさまざまな影響に作用し、その作用は生涯を通して続きます。受精時に始まる生物学的バイアスや素質といった影響からして、子どもが出会う世界との相互作用を受けるのです。 4.意識するしないにかかわらず、さまざまな出来事を通じて出会い、あるいは見聞きする他者(仲間や大人)は自己と比較する対象になります。特に強い影響力をもつのが役割(ロール)モデルですが、誰がどんな理由でモデルに選ばれていくのかを予測することはできません。ひとは、重要な集団やカテゴリーなどと自己を比較し、すばやく「同じ」か「違う」かを判断するものです。 5.成人にみられる最終的な性的プロフィール(行動・願望・態度)は、これまで述べてきたすべての複合的産物であり、自然的要素の上に文化的要素が重ねあわされた結果なのです。だからこそ、私は発達に関する自説を「バイアスのかかった相互作用(Biased Interaction)」理論あるいは「バイアスのかかった(Biased Predisposition)素質」理論と名づけています。「自然vs.養育」理論ではなく、「自然と養育との相互作用」理論なのです。 倫理的な見地に立てば、個々人が、他者に危害を加えない限り、自己にもともと備わっている傾向そのままに性的表現やジェンダー表現をすることは許されて当然だろうと思います。ジェンダー表現や性的表現について何が正しいかといった自分の好みや意思を他者に押し付けるなど、誰にもそうした権利や権限はないはずです。 男性であるか女性であるかにかかわらず、すべての人が学びたいことを存分に学び、望むように成長してゆくことができ、好きなようにライフ・コースを選び、他者に危害を加えない限りにおいて、どんな人生でも好きなように選べる、そういったあらゆる機会が与えられてしかるべきだと、強く思います。性教育は正直なものであるべきだし、男らしく、あるいは女らしく振舞うことは義務ではないし、男性か女性かにかかわらず、誰であろうが決められた道を進むことを強制されるべきではないと、心から思います。 こうした目標を実現するための最善の手段は、教育や就労の機会を男女に等しく提供することであり、潜在的能力を最大限に伸ばし、実力や希望を示せるようにすることです。最大の機会を与えられれば、彼や彼女にとって最善とは何かがおのずと見えてくることでしょう。日本に限りませんが、こうした平等主義的な扱いを市民に提供することに最善を尽くせば、市民の潜在的貢献を引き出すことができ、社会や文化にとっての利益にも繋がるはずです。生物学的特徴が進化を経るのと同様に、社会的実践もまた進化するものなのです。私たちが進むべき道がどっちであったのか、その答は未来にあるのです。 ブレンダと呼ばれた少年復刊問題
by alfayoko2005
| 2006-03-13 11:40
| ジェンダー・セックス
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