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2006. 03. 22
[宗教と国家](1)政教分離のはずが…(連載) 小泉首相の靖国神社参拝やムハンマドの風刺画問題、宗教原理主義の台頭……。政教分離を大原則とするはずの「近代」と「国民国家」が揺らいでいる。宗教の復権は進んでいくのか。論点を探る。(植田滋) 「近代国家は政教分離をうたいながら、実は国家が宗教の役割を担ってきた。経済のグローバル化やIT技術の進展で国家の枠組みが衰弱したため、近年、国家が宗教の代替物となりえなくなってきている」 こう語るのは、政治学者の野田宣雄・京大名誉教授(72)だ。滋賀県の浄土真宗の寺の住職でもある野田さんによれば、国民に国旗に対する敬礼を求めたり、国のために死んでも歴史のなかで「永遠に生きる」と信じさせることによって、近代国家は自らを神聖化させてきたという。それが冷戦終結以降、グローバル化によって国家の枠組みが弱まったため、人々の精神に大きな空白が生まれてきた。 こうした状況では、再び国民国家を強化する方向に進むか、もはや国家だけでなく、いろいろな拠(よ)り所を多重的に求めていくかが問われる。野田さんは国民国家を維持していくだけの受け身の対応では、「結局、中国の帝国化を傍観するだけになる」と語り、国家を超えた普遍的価値の追求の必要性を説く。 「例えば、皇室のあり方にしても、日本人の象徴であると同時に、社会福祉活動などを通じて、アジアに広がる慈悲という普遍的な価値を体現する存在というイメージをつくっていくべきではないか」 ほかにも、宗教的組織が自らの普遍性を自覚し、広域的な通用力を強めていくことを野田さんは期待する。浄土真宗の僧侶らしく、こう語る。「(日本の大衆を広域的に宗教組織化することに成功した)蓮如のような人物が、21世紀に現れないだろうか」 しかし、キリスト教という基盤があるヨーロッパと異なり、アジアに位置する日本は、この〈新たな中世〉を安定的に秩序化していく価値を確立していくのは容易ではない。「これから何十年と、カオス的状態が続くことを覚悟しなければいけないかもしれません」 2006. 03. 23 [宗教と国家](2)風刺画問題 天皇だったら(連載) 昨秋から吹き荒れているムハンマドの風刺画問題。表現の自由をうたうヨーロッパの人々と、預言者ムハンマドが漫画で揶揄(やゆ)されたことに激しく怒るイスラム教徒たち。対立は今や「文明の衝突」に近いとも評される。しかし日本人は、どうも対岸の火事のように傍観しているのではないか。 宗教研究者の磯前順一・日本女子大助教授(45)=写真=はこのニュースに接した時、「この問題を日本人に引きつけて考えると、天皇の問題に突き当たる」と感じたという。日本人は今やすっかり世俗化し、何を戯画化しても問題にならないように見える。しかし、仮に天皇を外国メディアが風刺漫画にして描いたら……。 皇室典範改正が問われている昨今、皇位継承に関する議論は華々しく行われているが、「実は天皇をめぐる言説は無意識のうちに規制されている。天皇制とはそもそも日本人にとって何なのか、問われないままになっているのではないか」。 磯前さんがこう語るのは、現在の天皇制が明治以降に形成されてきた「創られた伝統」であるとの認識があるためだ。そもそも〈宗教〉〈神道〉〈仏教〉という言葉も、明治以降に今のような概念として「作られていった」。天皇も、明治初めにはほとんど民衆に顧慮されない存在だったが、やがて現人神(あらひとがみ)になった。終戦で人間宣言はしたものの、かつては全く意味合いの異なる存在だったことは忘れられている。「創られた伝統」が、いつのまにか自明化されているのだ。 「天皇制って居心地がいい」。最近、磯前さんは学生の中に、こう語る人がいるのを散見する。天皇制が政治的にどういうものかは問わず、感覚的に天皇を受け入れているのだ。確かに、今の皇室はソフトそのものといえる。 しかし、「自分と自分の置かれている状況から距離を置き、相対化して対象化することができない」学生たちに、懸念も抱くという。感覚的な居心地のよさは、しばしばそのよさを抱けない「他者」との共存を難しくするからだ。「自分たちにとっての居心地のよさは、他者にはそうでないかもしれない。風刺画問題を日本人に引きつけて考えれば、そのことを自覚する契機になるのではないか」(植田滋) 2006. 03. 24 [宗教と国家](3)〈信仰〉としての天皇(連載) 女系天皇を認めるか、男系男子を維持すべきか。皇位継承規定をめぐり、いま議論が真っ二つに割れている。ことは保守対リベラルといった政治的立場の違いにとどまらない。保守派の中も意見が分かれている。 〈天皇の制度にとって大切なのは歴史ではなく信仰である〉。評論家の西尾幹二氏は、『諸君!』4月号(「『かのようにの哲学』が示す智恵」)でこう述べている。確かに、歴史や文献がどうかという議論を超え、今や対立は万世一系、男系男子の天皇制を〈信仰〉するかどうかにまで、煮詰まっているかにみえる。 とするなら、信教の自由が確立されているはずの近代国家・日本に、〈信仰〉対象である天皇が象徴として組み込まれていることになる。その〈信仰〉は、どこから生まれてきたのだろうか。 日本思想史の安丸良夫・一橋大名誉教授(71)=写真=は、「日本型信教の自由」を、近代国家成立の過程から問い直してきた。 安丸さんは、「万世一系は、むしろ近代天皇制になって強く言われるようになった」と話す。天皇制の正統性の根拠が中世や近世と近代とでは異なっており、「天皇は、例えば中世には仏教によって権威づけられているかが重視された。近世では新井白石が『天皇は徳があるかどうかが問題』と説いている」と説明する。 明治政府は、国同士が競いあう資本主義的世界システムに対応するため、地域、社会階層、神仏儒の違いを越えた国民国家づくりを迫られた。その権威として天皇を持ち出し、天皇と結びついた神社を別格にした。その結果、神社は非宗教とし、それ以外を宗教として認める日本独自の信教の自由が生まれたという。今も天皇が〈信仰〉の対象であるなら、戦前の天皇像がなお生き残っているということかもしれない。 戦後は新憲法のもと、信教の自由も別格なしに規定された。しかし、安丸さんによれば、戦後日本も「資本主義的世界システムの中の国民国家」であることに変わりはない。そうである以上、「今のシステムが行き詰まった時、解決策として天皇制ナショナリズムが強まるかもしれない」と言う。果たして天皇は将来、〈信仰〉対象としてまた前面に出てくるのだろうか。(植田滋) 2006. 03. 27 [宗教と国家](4)宣長が見た格差社会(連載) 村岡典嗣(つねつぐ)著『本居宣長』という本がこのほど、平凡社東洋文庫から復刊された。村岡の名を知る人は多くないだろうが、彼はこの書を1911年に著したことで「日本思想史」という研究分野を確立したといわれる。日本思想史とは〈認識されたことを認識すること〉だと規定し、思想家をその内面から理解することに努めた。 だが、なぜいま宣長なのか。復刊本の解説を書いた前田勉・愛知教育大教授(50)=写真=は、この国学者を問う意味を説く。「本居宣長を内から理解することで、近代日本と天皇の問題を考えることができるのです」 日本は幕末から明治前期、西洋の衝撃によって国民国家と近代天皇制をつくった。しかしそれだけでなく、「それ以前の近世から、内在的に日本人というナショナル・アイデンティティーが生まれてきていた。宣長を問うことで、なぜ日本人が近代に入り『下から』天皇を支えたのかが見えてくる」。 宣長は知られているように、〈天照大神の子孫である天皇の御心を心として生きる〉ことを説いた。前田さんは「宣長には何もかもが神のしわざであり、人間はひたすらそれに随順しなくてはならないという、宗教的な絶対依存の観念があった」との村岡の研究を引きつつ、その依存感情の背景には、「敗者、弱者のルサンチマン(恨みの感情)があった」と指摘する。 宣長が生きた18世紀は商品経済が発達し、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる時代。しかもカネがすべての時世になりながら、身分制は固定されたまま。「どうしようもない不条理な感覚を抱いた人たちが現実逃避し、純粋な古代という幻想世界の住人になり、やがて天皇に救いを求めるようになったと考えられます」 江戸時代はキリシタンや一向宗を徹底的に弾圧して成立したため、不条理な感覚が広がった時、救済の道をそうした宗教に頼ることができない。そこで持ち出されたのが、「皇国」意識だったという。 しかし考えてみれば、カネがすべてとか、格差社会による不条理などは、現代にもそのまま当てはまる。とすれば、21世紀の「敗者のルサンチマン」は、また純粋な何かを求めるかもしれない。(植田滋) 2006. 03. 28 [宗教と国家](5)ホッブズ通じて見る靖国参拝(連載) 宗教と国家の関係を問うにあたって、現在の日本で避けて通れないのが、小泉首相の靖国神社参拝だろう。小泉首相は靖国参拝を「心の問題だ」と語っている。この発言をどう評価したらいいのだろうか。 「小泉首相は(自らの)心の問題といいながら、靖国参拝という行為によって、国民の心に介入してきているのではないか」。こう疑問を呈するのが、昨秋『ホッブズ 政治と宗教』(名古屋大学出版会)を著した政治学者の梅田百合香さん(38)=写真=だ。 『リバイアサン』で知られるイギリスの思想家ホッブズを通じて政治と宗教を考察した梅田さんは、「西欧は人間の〈外面〉と〈内面〉を峻別(しゅんべつ)した上で、政治がかかわれるのは〈外面〉だけだとすることで、近代へ進んだ」と語る。 ホッブズが生きた17世紀イギリスは、まさにピューリタンの時代。宗教勢力が政治化し、国王を処刑するというような事態になる中で、ホッブズは宗教をいかに政治の中に取り込むかという課題に挑んだという。そこで見いだされたのが、〈人間の意志は神によって必然的に与えられる。それこそが神と人間とがつながる究極の場面〉という確信だった。そこからホッブズは逆に、人間の意志=内面に国家は介入できない、という結論を導いたという。 とするなら、小泉首相は国家を代表する立場にある者として、自らの行為が「国民の内面」に介入していないか考慮しなくてはならない、ということになる。国民の中には、いまの靖国神社のあり方に同意できない人もおり、首相の参拝で内面が圧迫されたと感じる人もいる。 しかし首相に限らず、今の日本で一人一人の内面はどこまで尊重されているだろうか。案外、「これが日本の信仰の姿だ」「日本人らしさはこうだ」などといって、無意識のうちに他人の内面に介入している言説も多いのではないか。 「日本人は近代をもう一度再認識して、近代を自分たちのものにする作業をするべきだと思う」と梅田さんは語る。国民国家が揺らいでいる時、それが獲得した成果を理解し直す意味は決して小さくない。(植田滋)(おわり)
by alfayoko2005
| 2006-03-29 15:56
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