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[世界名作紀行]アンネの日記 松本侑子(寄稿) (読売・西部版 2006/08/09夕刊)
◇オランダ・アムステルダム ◆この部屋で夢思い… 中学生のころ、毎晩のように『アンネの日記』を開いた。それまでに読んだ書物の著者は、年の離れた大人で、ほとんど男性だった。自分と同じ10代前半の女の子が書いた本を、初めて知ったのだ。 オランダ、アムステルダムに暮らすアンネ・フランクは、1942年6月、13歳の誕生日に日記帳を贈られる。当時のオランダは、反ユダヤ主義のドイツが侵攻していた。ユダヤ人狩りを避けて、一家は、翌月、隠れ家に潜伏する。 日記には、戦時の暮らしだけでなく、思春期の女の子の日常と感情が、率直に綴(つづ)られている。勉強と読書、将来は作家になる夢、女性の自立、母親との衝突、家族への不満と感謝、戦争の愚かしさ、異性への関心、同居するペーター少年との初めてのキス……。 知的で、感受性が鋭いアンネの自己分析、落ちこみ、憧(あこが)れに、私は共感し、微妙な気持ちもわかりあえる心の友に出逢(あ)った気がした。 隠れ家の近所には、西教会(写真(右))がある。15分おきに鳴る鐘を聞いて、アンネは規則正しく暮らした。また屋根裏から教会の塔を見て、外の世界を思い、決して希望を失わなかった。 だが日記は、次第に暗くなる。長引く戦争、見つかる不安と緊張、空襲の恐ろしさ、食糧不足。ロンドンからのラジオ放送に耳を傾け、英米連合軍が上陸して、オランダをナチスから解放する日を、終戦の日を、待ち望んだ。 しかし、44年8月1日を最後に、日記は途絶える。3日後、隠れ家にゲシュタポが踏みこみ、一家は強制収容所へ送られた。翌春のドイツ敗戦まで生き残ったのは、アンネの父だけだった。 アムステルダムは運河の多い街で、水辺の情景が美しい。隠れ家(写真(左))も運河に面していた。間口は狭いが、奥行きは深い。この建物の奥にアンネは2年間、隠れ住んだのだ。今は博物館で、見学者が列をなしていた。 隠れ家への秘密の入口である回転式本棚を通り、中へ入る。床板も階段も、当時のまま。台所、陶器のトイレ、ペーターと語り、教会の塔を眺めた屋根裏。壁にはアンネが貼(は)った映画スターの写真が残り、少女らしい夢が感じられる。確かにアンネは、ここに生きて、ここで日記を書いたのだ! 心が震えた。 けれど15歳で死んだ彼女の最期を思い、収容所の悲惨な写真を見るのは苦しかった。日本はナチスドイツの同盟国だったのだ。私は決めた。彼女が生まれたドイツの家を探し、息絶えた収容所へ行こう。 [世界名作紀行]アンネの日記 続 松本侑子(寄稿) (読売・西部版 2006/08/16夕刊) ◇ドイツ・フランクフルト オランダ・アムステルダム ◆傍観する市民の責任 アンネ・フランクは1929年、ドイツのフランクフルトで生まれた。市内には幼少期に住んだ家が2軒ある。地図を頼りに探すと、当時の写真のまま残っていた。 2歳から4歳まで暮らした家(写真(下))へ行くと、ちょうど今の持ち主が出てきた。その男性に、アンネの生涯を訪ねて東京から来たと告げると、歓迎してくれた。家の表壁にドイツ語を刻んだ青銅板が埋まっている。意味を尋ねると、「ナチスのユダヤ人迫害によりフランク一家はこの家を出てオランダに亡命したが、アンネは15歳で死亡した。世界の若者はこの歴史を学び、忘れてはならない」という主旨だと教えてくれた。 実際、アンネが4歳になる33年、ヒトラーが政権をとり、ドイツでユダヤ人狩りが始まる。翌年、一家は隣国のオランダへ転住した。 私は、彼らが移り住んだアムステルダムの団地を訪ねた。のどかな住宅地だった。アンネの父が娘に日記帳を買った書店は、今も営業していた。大好きだったアイスクリーム屋、通った学校(写真(上))もあった。校舎の壁にはアンネの直筆日記が写されている。周りでは子どもたちが甲高い声をあげて遊んでいた。アンネも同じように元気で可愛(かわい)い女の子だったのだろう。 だがドイツのオランダ占領により、アムステルダムでもユダヤ人迫害が始まる。一家は「隠れ家」に2年間、潜伏するものの、密告により見つかり、強制収容所へ送られた。 半年後の45年3月頃(ごろ)、アンネは北ドイツの不潔な収容所で、寒さと飢え、チフスに力尽き、地面に倒れて死んだ。頭は丸刈り、服も所持していなかった。解放の英軍が到着したのは、翌月だった。彼女は今も、多数の死体が遺棄された穴に眠っている。 強制収容所では600万人の何の罪もないユダヤ人が死亡した。ナチスは黒人、障害者、同性愛者も収容所へ送った。 では今、社会的少数者への偏見、異なる民族への不寛容は、なくなったのだろうか。 アンネは書いている。「戦争がなにになるのだろう。なぜ人間は、おたがい仲よく暮らせないのだろう。なんのためにこれだけの破壊がつづけられるのだろう(略)わたしは思うのですが、戦争の責任は、偉い人たちや政治家、資本家にだけあるのではありません。そうですとも、責任は名もない一般の人たちにもあるのです」(1944年5月3日の日記)。傍観する市民の姿勢も彼女は静かに問うている。 ◇ 『アンネの日記 増補新訂版』アンネ・フランク著、深町眞理子訳、文春文庫
by alfayoko2005
| 2006-08-17 10:00
| ジェンダー・セックス
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